当時の私は、父と同じように教会の牧師になりたかったんです。その頃父は青森県弘前市の弘前学院の院長をしておりました。それで私が15才の頃に弘前市に移ってきまして、私は弘前市の東奥義塾高校に入学しました。そして私が青春時代を過ごしたこの弘前という土地で、私はジャズという音楽と出会ったのでした。 実は私は当時、ジャズよりも現代音楽の方が好きでした。バルトークとか、よく聴いてましたね。そんな私に東奥義塾高校の船水先生という大変ジャズが好きな方がいらして、ある日私に言ったんですよ。 「現代音楽を聴く以上は、やはりジャズも聴いておく必要があるんじゃないか」って。それで私もジャズという音楽に前からちょっとは興味がありましたから、さっそくレコード屋さんに行ってジャズ・コーナーのところで目をつぶっ て一枚買ったんです。 ええ、本当に目をつぶってですよ。そうして掴んだ一枚のアルバム、それがバド・パウエルのトリオの『バウンシング・ウイズ・バド』でした。 これはバド・パウエル晩年の作品なんですが、歌心が抜群なんですよね。当時17才のニールス・ペデルセンがベースを弾いてまして。これが私には神業のような音楽に聴こえました。 もちろんジャズという音楽が「分かる」というところまではいきませんでしたが。 でも小さい頃からアメリカで育ったということもあり、絶えず自分の周りにはリズム&ブルースや黒人音楽がありましたから、ジャズを受け入れる素地はあったと思います。 それでジャズを聴いて、初めてそれまで自分が求めていた黒人音楽のリズム感、そして現代音楽の微妙で複雑な音楽性といったものの融合性を発見したと思ったんです。 それは私が15、6才の頃です。 それからジャズのピアノの練習も始めたわけですけど、当時は弘前にはジャズを教えてくれそうなところというのはありませんでした。ですから高校時代は、まったくの独学ですよね。高校の授業が終わるとジャズ喫茶に行って、よくジャズのレコードを何時間も聴きました。 今でも覚えているのは高校2年生と3年生の文化祭でジャズを演奏した事。 これが私が人前でジャズを演奏した初めての経験だったと思います。それから弘前大学の医学部に小さなジャズ研究会があって、そこでよくもぐりで演奏してました。ジャズのアドリブの楽しさを覚えたのもこの頃です。 (以下、ケイ 赤城インタビュー 〜
プロ・ミュージシャン篇に続く) |